writer: 佐々木晃也
「あり方」
この言葉を日本語表現辞典 Weblio辞書に検索をかけると次のように表示される。
ありかたありよう。ありさま。現在ある形や、本来のあるべき形について用いる。「在り方」や「有り方」と書く。
goo国語辞書においてはその意味は2つに分けて表示される。
1. ある物事の、当然そうでなければならないような形や状態。物事の、正しい存在のしかた。「会議の―」「福祉の―」
2. 現にある、存在のしかた。ありさま。ありがたち。
この場で焦点を当てたいのはgoo国語辞書の1つ目の意味であろう。
また、Weblio辞書で言えば、「本来のあるべき」という箇所の意味に該当する。
「本来の」「当然そうでなければ」「正しい」等々の修飾語付きの存在のしかた、それがこの場で問われるべきものと仮定する。
あり方を問うときの危険
論は次のように進むことが予測されうる。
「本来の」という言葉に引っ張られるのであれば、「本来的な姿がある」ということが前提とされ、「本来的ではない姿」との峻別が問題となるだろう。
「当然そうでなければ」という言葉に引っ張られるのであれば、「当然そうでなければいけない姿」が前提とされて、「そうではなかった姿」との区別あるいはなぜそうなった/ならなかったのか、という分水嶺の原因認識が問題となる。「正しい」も同様であろう。
ここからは上記の共通イメージを便宜上「本来」という言葉に集約して、論を進める。まずわたしたちが自覚すべきことは、問題-解の回路が精神の奥深くにプログラミングされていることである。わたしたちは、ついすぐさま問題に対しての解を見つけようとする。しかし、ある哲学者の言う通り (ⅰ)、重要なのは、問題そのもの(そもそもその問題は問題なのか?その問題の解決を合理的に目指すことは本当に必要なのか?)の真偽を検証することである。
だからこそ、こうした問題の解を探ろうとする以前のある疑念が発生している自分の状態に向き直っておきたい。そうすると、ある疑念が疑問としてはっきりしてくる。それは次のようなものである。
「そもそも本来的なものなど本当にあるのだろうか。また、経験が有限であるわたしが 本来的なもの/本来的でないものの区別してしまうことの危うさはないのだろうか」
ここで日本の哲学者國分功一郎氏の指摘 (ⅱ)を思い出す。それは、「本来性」を求めて、「本来的なもの」と「本来的でないもの」の区別をつける、定めるのは危険である、といった指摘である。少々長いが引用する。
「<本来的なもの>は大変危険なイメージである。なぜならそれは強制的だからである。何かが<本来的なもの>と決定されてしまうと、あらゆる人間に対してその「本来的」な姿が強制されることになる。本来性の概念は人から自由を奪う。
それだけではない。<本来的なもの>が強制的であるということ、そこから外れる人は排除されるということでもある。何かによって人間の「本来の姿」が決定されたなら、人々はそれが強制され、どうしてもそこに入れない人間は、人間あらざる者として排除されることになる。
例えば、「健康に働けることが人間の本来の姿だ」という本来性のイメージが受け入れられたなら、さまざまな理由から「健康」を享受できない人間は非人間として扱われることになる。これほどおぞましいことはない。」
『暇と退屈の倫理学』p165
わたしたちは、何らか、本来的な姿を定めたならば(それは、本来的な姿とそうでない姿を区別する尺度を採用したことを意味している)、基本的には、本来的でない姿に対しての反応は、排除か、本来的な姿になるような強制か、のどちらかとなる。
実際、直接「強制」せずとも、間接的にあるいは暗示的に人を本来的なものになるように関わるならば、教育でも政治でも、その関わりは「強制」とある。もちろん、こうしたことは何も他者との関わりだけに現れるものでもない。自分に対して強く「本来的な姿」のイメージを持っているものが、自分を強く律することも同様である。「本来的な姿」を求める思考、それ自体が危険なのである。
区別から程度の調整へ
「あり方」を問う、定め直すという課題設定自体が前提となっている考え方によっては危険を孕んでいることをここで自覚しておかねばならないのだろう。
しかし、自覚の上でなお「あり方(本来的な姿)」を問いたいのであれば、いかなる仕方が考えられるのだろうか。指針としての「あり方」を求めるのは危険であるけれど、何か本来的なものが欲しい。ならば、その状態そのものをまずは明らかしてみたい。「あり方」を問わざる得なくなっている者は、そもそもどのような状態にあるのだろうか。
本来的な姿という指針を求めるのは<本来的なもの>への移行欲求を反映している。それは現時点での自分の状態や振る舞い方に対して「これは本来の自分の姿ではない」「なんかこれは違う」そういった感覚を感じているからだろう。これは本来的なものとそうでないものがある、という区別をしたい欲求に駆られているからである。だが、そう簡単に割り切れる・区別できるものだろうか。
ならば、こう考えてみるのはどうか。わたしたちはもっとなめらかに様々なバリエーションを持って存在している、と。
わたしたちは、ある程度は何かに強制されざるをえないし、そうした意味でいささか本来的な姿ではなくなっているが、それでも、ある程度は本来的な姿でもある。完全な本来的な姿はないが、完全に本来的ではない姿もない。けれど、より本来的である姿を探していきたい。そういった存在様式である。
要となるのは、はっきりとした区別を設けようとする思考様式から、無限のバリエーションの中でのその「程度」を調整しようとする思考様式への転換である。
そうすると、「あり方」の問いは、同じ問い方でも別のイメージで問うことができるようになる。
現実世界では、なめらかなバリエーションの中でしかあれないし、実際これまでもそうでしかあれなかったのだ。あの時の自分らしくいれた感覚はより本来的だっただけで、あの時の自分らしくいれなかった感覚はより本来的ではなかっただけなのだ。どの存在の仕方にも本来的ななにかは残存していた。
その上で、では、「より本来的な感覚を得た時とより本来的な感覚でいられなかった時にはなにが異なっていたのか。それはいかなるものの濃度の違いであったのか」と考えてみる。ちなみに、心理学では、こうした多様な出会いの中で多様なバリエーションを持って感覚される「本当(本来)の自分っぽくいれたな」「自分らしくいれたな」という感覚を「本来感(sense of authenticity)」と呼ぶ 。(ⅲ) 「あり方」の問いは、こうした日々感覚する「本来感」を手掛かりにして、わたし自身が、いかなる状況においてその感覚の濃度が異なっているかを認識しようとする営みへの入り口なのである。自分自身の経験の反省を行い、その上で本来感の濃度を決めている原因を探索する実践的思惟。
「あり方」の問いに正解も不正解もないのだ。「あり方」の問いは、ただただ、自分自身に喜びあるいは悲しみを招き入れた経験の積み重ね全てに表現されていた自分自身の秘密を見つけていく過程なのだ。
これまでの経験の反省から、仮説をつくりだし、それを元に、また日々の関わりの中で実験していく。必要であれば、新しい振る舞い方にチャレンジしていくべきだろう。
そうして、自負と懐疑、誇りと懸念、両方抱え込んで、日々の振る舞いの中で、秘密(「自分のあり方」)を発見していく。そのとき、わたしたちはみな、自分自身の生態学者であり、動物行動学者なのである。
(ⅰ) 「実際、真偽が単に問題の解決にのみかかわり、解決によってのみ真偽が始まると考えるのは誤りである。この偏見は社会的なものである。(なぜならば、社会と、その命令のことばを伝える言語は、あたかも《都市の行政区画》から出てきたような全部でき上がった問題をわれわれに《与え》、その《解決》の仕事をわれわれの任務として、われわれに残される自由はほんのわずかしかないからである)。さらにこの偏見は子供じみていて、また学校教育から生まれたものである。つまり、問題を《与える》のは学校の先生であり、生徒の仕事は解決を発見することなのである。それによってわれわれは、一種の隷属状態のなかに置かれる。真の自由は、問題そのものを決定し構成する能力のなかにある。」ジル・ドゥルーズ『ベルクソンの哲学』 宇波彰訳、法政大学出版局、1977年、5-6頁
(ⅱ) 國分功一郎『暇と退屈の倫理学』、朝日出版社、2011年、165頁
(ⅲ) 伊藤正哉・小玉正博『自分らしくある感覚 (本来感) と自尊感情がwell-beingに及ぼす影響の検討』 、教育心理学研究53(1) 74-85、2005年。心理学の主要なテーマの一つに人間が心理的に最良の状態で機能していることを意味するwell-beingがあるが、本論文では「自分自身に感じる自分の中核的な本当らしさの感覚の程度」と操作的に定義した「本来感(sense of authenticity)」と自尊感情、そして、それらとwell-beingの影響関係を調査・検討している。興味深いのは、自律性に対しては本来感が正の影響を与え、自尊感情は負の影響を与えており、そして、人生に対する満足に対しては自尊感情のみが影響を与えているという結果である。本稿に引き合わせて言えば、その場で自分らしくいれた感覚(本来感)は自己の自律性を高めるが、人生に対する満足感には影響を及ぼしていない。そして、人生に対する満足感は、他者の影響・依存なしに自分らしくいられる感覚ではなく、他者との関係においての自尊感情の高まりが影響しているということとも推察できる。こうしたことから、他者と関わりつつも、自分らしくいれるという中庸の態度がwell-beingにつながる「あり方」と言えるかもしれない。いずれにせよ、本来感の研究は2005年以後、日本でも続々と論文が出ている領域なので、関心のある方は最新研究も含めて調べてみてはどうか。
writer:
佐々木 晃也 Koya Sasaki
対話の研究者
1989年 北海道生まれ。大学在学中に他者との出会いが喜びあるいは悲しみになる原因に関心を持ち、対話の研究をはじめる。これまで、社会心理学、認知科学、教育工学の立場から対話に関する研究論文を執筆。現在は20世紀フランスの哲学者ジル・ドゥルーズの哲学の教育思想史的読解に取り組んでいる。