インタビューvol.20 松田雄馬さん「自分だけの「物語」をつくる」



人工知能を研究する科学者でもあり、人工知能システムを開発するアイキュベータを経営する松田さん。人工知能(AI)という言葉は、最近はよく耳にする言葉ですが、私の持つ人工知能のイメージは、便利そうだけどよくわからない、なんだか近づきがたいというものでした。今回、AIから遠い場所にいる私が、どのようにお話を伺うことができるのか、少しの興味と、大きな不安を持ちながら、松田さんにインタビューさせていただいたというのが、正直なところです。

実は、お会いする前に松田さんの本を読んでみました。「人工知能の哲学」というその本は、素人でもわかるようにと工夫して書かれていると聞きましたが、私にはちょっと難しい…。でもこのままインタビューに伺うわけにもいかずに困っていたところ、松田さんが小学生向けのワークショップの講師をすると聞いて、インタビュー前に見学をさせてもらいました。すると、本を読んだだけのときと、松田さんの印象はガラリと変わりました。小学生の疑問や考えに真っ直ぐに向き合う松田さんの姿は、小学生だけでなく、私たち大人に向けても、大事なことを伝えてくれているようでした。

ワークショップでは、AIというものがどういうものかを小学生にもわかるように体験してもらえるように、「りんごとみかんを分ける方法を考える」ということを行いました。そして、AIが何か、どんなことができるのかがわかったうえで、「学校にどんなAIがあったら幸せか」というアイデアを、グループごとに考えていきました。

みんなが楽しそうにワークを行う傍らで、松田さんはニコニコと小学生たちの活動に加わります。こういう楽しく考える時間がいつかひとりの研究者を生み出すのかもしれないと思ったひと時でした。小学生への総評の中で、「自分ごととして考えると、みんなが幸せだと思えるようなシステムをつくれるよ」「最初にアイデアをたくさん出すといい議論ができるよ」というように、これからの社会を生きていくうえでのベースになることを、きちんと小学生たちに伝えている姿に松田さんの、小学生への、そして、社会への思いを感じることができました。

それと同時にAIとは、きちんと考えると、一体どういうことなんだろう、これからの社会はどうなっていくのだろうと謎は深まるばかり…。謎を抱えたまま、松田さんのオフィスにお邪魔することになりました。

(注)今回見学させていただいたワークショップは、一般社団法人こたえのない学校主催のポラリスキャリアスクール「人工知能って何ができるの?これからの社会はどうなる?」でした。

©一般社団法人こたえのない学校

思考すること、感じること

ーーワークショップの中で子どもたちがりんごとみかんのカードを分けるワークをしていて、AI(人工知能)とは、「何かを基準にして分ける」ということなのかな、と思ったのですが、そもそもAIとは何なのでしょうか?

「何かと何かを分ける」ということができるのが、今、世間で話題になっているAIだということは、正しいと思います。しかし、より深く、AIについて理解するには、AIの歴史を知るのが良いと思います。AIがどこから来たのか、そして、どのように進化してきたのか、そういった、AIの起源がわかれば、今、何故AIが話題になっているのか、そして、その先どうなっていくのかが、手に取るようにわかってきます。

まず起源からお話します。AIの起源は、実は、今私たちが使っているパソコンやスマートフォン、すなわち、コンピュータの起源と同じなのです。なので、コンピュータの起源についてお話しましょう。今のコンピュータの起源は、なんと、300年以上前に遡ります。今、私たちが勉強している数学を作ったライプニッツさんが「人間みたいに思考する機械が作れたらいいな」と思ったところから始まったんです。

そこから作られたのが今のコンピュータです。細かい説明は端折りますが、コンピュータは、やりたいことを「こういう風に計算してください」と言えば何でも計算してくれます。

そして、今は当たり前のようにコンピュータがありますが、当時としてはとても画期的でした。いろいろな計算が、それまでとは比較にならないほど、楽にできるようになり、その結果として、複雑な建物やロケットなど、それまでは人間の手だけではできないほど複雑だったものも、コンピュータの力を使えばできるようになってきました。

つまり、300年以上前にライプニッツさんが「人間みたいに思考する機械が作れたらいいな」と思って、その結果としてできたコンピュータは、人間よりも遥かに速く複雑な計算ができるコンピュータとして、実現したのです。なので、基本的には、AIというものは、人間の「思考」の中でも、特に、「論理的に考える」「計算する」というところに特化したものです。人間の「思考」と同じというわけではないんです。

ーーAIは思考できるんですか?

思考という定義が難しいので、ちょっと答えづらい質問ではあります。AIは「考える」という部分は得意なんです。人間の思考を「論理的に考える」と「感性豊かに感じる」に分けるとしましょう。すると、AIは、問題が与えられたときにそれを「論理的に考えて」解決していくことができます。一方で、AIは、「感じること(美味しい、美味しくない、しんどい、楽しいなど)」に関しては全くできていないという理解が、わかりやすいかと思います。もし、AIが「感じること」ができれば、「問いを立てる」ということができます。

よくわからないかもしれませんね。例えば、あなたが、お友達とおしゃべりしていたとしましょう。そして、そのお友達と、何か意見が違っていて、「何かが違うな」と思ったとしましょう。すると、「あれ?私は、彼/彼女と、なぜ意見が違うのだろう。」と疑問に思うかもしれません。例えば、すごくつまらない話かもしれませんが、一緒にランチを食べようとして、「私は和食が食べたい」と言ったあとで、友達は「和食はちょっと…」と言ったとしましょう。すると、あなたは、「ひょっとして、昨日和食を食べたばかりなのかな?それとも、この近所の和食に悪い思い出があるのかな?」と思うかもしれません。そして、その理由がわかれば、別の提案ができるかもしれません。

このように、コミュニケーションの中で、臨機応変に問いを立てながら、より良い答えを探していく、などということは、日々の生活の中で、私たち人間は、当たり前のようにやっていることのように感じるかもしれません。しかし、この「問いを立てる」というということが、実は、AIはとても苦手なのです。逆に、人間が作った難しい問題を解くのは得意なんですけどね。

脳と意識

先ほどの例で、コミュニケーションの中で、臨機応変に問いを立てることができたのは、友達と何か意見が違って、「何かが違うな」と感じたことでしたね。この、「感じる」ということができるのは、人間だけ(生物だけ)なんです。

ちょっと難しいかもしれませんが、「感じる」ということを理解するために、少し、脳科学のお話をしましょう。「感じる」というのは人間の脳では、「情動脳」というところで行われています。「情動脳」というのが何者なのかを知るには、脳の構造を少し学ぶ必要があります。少し難しいお話ですが、お付き合いくださいね。

脳の真ん中には体中の神経細胞とつながっている「反射脳」があります。これは「ぶつかった、引っ込める」というような反射を司ります。その上に「情動脳」という感情を司る部分があります。これは「ぶつかった、引っ込める→実は痛かったから引っ込めた」というような「感情」を伴います。さらにその上は理性を司る「理性脳」があります。

自分が単純に感じるだけではなくて、「あの人はこう感じている、じゃあ自分だったらどうか」というように「社会」の中で生きていくコミュニケーションを行うことができます。そして、感じることができるから論理的にも考えられるし、論理的に考えられるから社会的に、情動的に考えることもできる。

このように、反射脳や、情動脳や、理性脳といった、それぞれの役割が相互につながって連携しあっているからこそ、論理や、社会性や、感情など、様々な「こころ」が生まれているんです。

例えば、ここにコーヒーカップがありますね。これを触ると「熱い!」と感じる。そして、ただ目の前に突然現れたカップではなく、寺中さんに淹れていただいたコーヒーというところに、ありがたみというか、「淹れていただいてありがとうございます」と思いながら飲む。勿論、これはブラックコーヒーであって、原産地はどこで…というある種の論理的な分析も働く。こんな風に、コーヒーカップ一つとっても、複雑な脳と「こころ」の働きの中で、その「意味」を感じ取ることができるのです。

ーー感情と意味は近いところにあるのですか?

そうなんです、感情がなかったら意味がわからないんです。先ほどのコーヒーカップの例をもう一度使って説明してみましょう。

コーヒーカップは、誰が見ても「コーヒーカップ」と思うじゃないですか。本当にそうかということを考えてみたいんです。

例えば、今、コーヒーカップの奥に、みかんがあります。そして、このみかんを食べようと思ったとします。するとコーヒーカップは、視界には入っているかもしれませんが、「みかんを食べよう」として手を伸ばしたらぶつかってしまう、「邪魔者」になってしまいますよね。

それ以外にも、今、突然、火事が発生したとします。すぐにでも水をかけて消化しないといけません。すると、コーヒーカップはそのような非常時であれば、コーヒーの豆がどこ産だろうが、ブラックコーヒーだろうが、そんなことは関係なく、ただただ火を消すための「液体」をかけるもの、として利用されますよね。

こんな風に、状況によって、コーヒーカップの「意味」というものは、大きく変わってくるんです。このような、次々に変化する状況を、「文脈」といったり、「物語」といったりします。

自分自身の物語を

ひと言で言うと、私の研究は、「ものを見る」という研究です。ここにコップがあるときに、機械に「コップだ」と言わせたいけれど、これが非常に難しい。なぜなら、機械は、ものを認識することができないからなんです。では人間はどうやってものを認識しているのか。

先ほどのコーヒーカップの例のように、自分自身の「物語」の中で、理解していきます。すなわち、自分が今どんな物語を演じているのかを理解する必要があります。これは、普段、私たちは何気なく行っていることなのですが、機械にとっては、すごく難しいことなんです。

ーーAIが「自分」を認識できるようになる可能性はあるんでしょうか?

なったらいいんですけどね…なかなか難しい。たとえ擬似的に、外から「こういう物語」と与えることはひょっとしたらできるかもしれませんが、それは「自分を生きている」というのとは全然別のことなんです。

例えば私たちが「あなたはこういう人生を生きなさい」と言われても嫌ですよね。それは自分ではないんです。そう考えると外から与えるのはどうしても限界があって、究極はAI自体が命を持たなければいけない、という話になってくるんです。そうなると人間のように細胞が生まれては死ぬことを繰り返さなければならないのですが、それを半導体で作るのは難しい。

ーーSFみたいにコンピュータが自ら考えて、世界を乗っ取るのはまだあり得ない話のようですね。

AIは今のところは道具でしかないのです。とはいえ便利な道具です。AI(人工知能)は人間の「知能」と同じ性質を持つものではなく、人間が活用して初めて意味を持つものなんです。

便利になることの先にあること

ーー便利になるのは本当に良いことなのかと疑問に思っているのですが…。

技術は楽をするために、人間が豊かになるように発明されたはずなんですけど、どういうわけか余計忙しくなっていますね。そもそも私の研究のモチベーションもそういうところにあります。

便利な社会を作るのが幸せかということについては、今、人間と機械の関係が逆転していると思っています。本来、人間が主人公で機械は道具なので、主人公が自分なんです。豊かな生活や人生を送りたいというのが最上位にあるとして、そのために必要であれば道具を使えばいいということだと思うんです。

人間を主人公にしたら「こうすればもっと楽しいよね」と、どんどん豊かになっていきます。そこで今、AIと呼ばれているものが必要であれば使えばいいし、そうでなければ別のものを使えばいいんです。

社会をデザインする

私は、2001年に大学に入学したんですけど、その頃まさに「これからユビキタス社会が到来する」と言われていました。いつでも、どこでも、誰でも、何でもできるようになるということが言われていて、私自身はそこに夢を持っていたんです。

しかし実際に時代が進んでいって何が起きたかというと、圧倒的な情報格差です。情報にアクセスできる限られた人たちにはすごく便利に出来ているけれど、そうではない多くの人が取り残され、グローバル競争にさらされています。

「じゃあ、そもそも情報化社会って何なの?」というところから私の研究が始まりました。実は単純に技術開発をすることはどうでもよくて、技術を開発したその先にどういう社会を作っていくかということをデザインする、いわゆる社会デザインをしていきたいんです。それはライフスタイルの提案でもあり、研究者の役割だと思い始めたんです。

社会を変えていく研究

ーー研究は共同でやることが多いのですか?

一人でやる時間はどうしてもありますね。実際に問題を解くときには、自分が思考しないと始まりません。「こういう風にやればできるよ」というのがちょっとでもデータで分かれば、それを大きいシステムにしていくのはチームでできます。

今の会社でもそういう動き方をしていて、最初のものを「プロトタイプ」と言って、それはひとりである程度、がーっと手を動かして作ります。それを提案して、みんなでやっていくという感じです。

だからどうしても、ラボに籠る時間があります。正直、そんなに籠るのは得意ではないんですけど(笑)。でもしょうがないですよね、本を書くのもそうですけど、自分からしか出てこないんです。誰にでもできる仕事をやってはいけないと私は思っているんです。

自分にしかできない仕事をやるべきだということになると、どうしても自分から出てくるのを待たないといけなくて、ある意味、孤独な作業があるところからはどうしても逃げられません。

ーー自分にしかできないことをやりたいということでしょうか?

どちらかというと、そうでなければダメだと思っています。今、AIと言われている「ディープラーニング」は、1979年にNHK研究所の福島先生という方が作ったんです。要するにもう40年前の研究をいまだに使っているんです。社会は40年前から変わっていない。始祖になる研究が出てこないと社会は変わらないと思うんです。

起源に戻る

ーー始祖が生まれるような環境はどんな風にしたらできるのですか?

好きなことやればいいんだと思います。ただひとつあるのは、先程、「全体の物語の中での自分」という言葉を使いましたけど、「自分は今までずっとこう生きてきて、これからずっとこうやって生きていきたいんだ」ということを言える人はなかなかいないと思うんです。「好きなことをやるんだよ」ということはよく言われていますが、その「物語」を作れるかということについては、あまり語られていないのかなと思います。

研究の中で、私は、起源に戻ることを大事にしています。何か気になることがあったら「それはどこから来たんだろう」と遡っていきます。簡単に調べるだけならインターネットを使えばいいし、あとは、一番最初の人の気持ちを追体験できないかと考えていきます。

いわゆるITやAIと言われてるものを使うのに、細部まで理解している必要はありません。私が必要だと思っているのはたったひとつで、「歴史を学ぶ」ということだと思うんです。あることを理解するには、それがどうやって生まれてきたのか、という起源さえわかれば、どういう目的や性質のものなのかが分かり、ひいては過去がわかれば未来がわかります。「技術を学ぶ」というのは、あるAIが「どこから来たのか」という話を紐解いていくことなのだと思います。



(インタビュー:寺中有希 2018.6.24)


プロフィール:
松田 雄馬(まつだ ゆうま)

1982年9月3日生誕(ドラえもんと同じ誕生日)。大阪出身。博士(工学)。2005年京都大学工学部地球工学科卒業。同大学在学中、中国北京大学に短期留学。2007年京都大学大学院情報学研究科数理工学専攻修士課程修了。同年日本電気株式会社(NEC)中央研究所に入所。MITメディアラボとの共同研究、ハチソン香港との共同研究に従事し、無線通信ネットワーク設計をインタラクティブに行う場の研究に着手。2008年、東北大学とのブレインウェア(脳型コンピュータ)に関する共同研究プロジェクトを立ち上げ、基礎研究に従事すると共に、海洋システムや航空システムをはじめとする社会実装に着手。2015年、情報処理学会にて、当該研究により優秀論文賞、最優秀プレゼンテーション賞を受賞。同年博士号取得。2016年、NECを退職し独立。2017年、合同会社アイキュベータを設立(代表)。著書「人工知能の哲学」(東海大学出版部)、「人工知能はなぜ椅子に座れないのか−情報化社会における「知」と「生命」」(新潮社)