主につくる・書く・教えるの3つの領域で働く西村佳哲さん。「Beingーあり方を探求するメディア」はインタビュアの寺中が西村さんの「インタビューのワークショップ」に参加したことがきっかけで生まれました。インタビューの入り口を開いてくれた西村さんのいまの風景をききました。
いまみえる風景
ーーインタビューにあたって西村さんの本を読み返し、いろいろな質問を考えてみましたが、最後に残ったものは、いま、西村さんがどんな景色を見てるのかということをききたいという気持ちでした。
過去のことはもう整理されているところがあるじゃない? あれにはどんな意味があったとか、自分にとってこういうことだったとか。
でもいま起きていることは、これが一体どういう意味を持っているのか、何になるかというのは全くわからない。だからいま見ている景色というのは、常に籔の中という感じです。
どんな景色か…。いま住んでいる神山町(徳島県)でこの数年とり組んできた、「まちを将来世代につなげるプロジェクト」や、オンラインの「インタビューの教室」、それから…自分の中のトピックスとしては、去年の12月くらいから、“ 食べ方„ ということについて考えています。毎日3食を食べながらいろいろ考えていて、これも大きなボリューム感を持った風景です。
ーー実は今回西村さんの本を読み返したのをきっかけに、この1週間、食べ物が口に入っているときはお箸を置いて食べています。そうしたら時間の流れが変わりました。
変わりますよね。じゃあ、食べ方の話をしようかな。
どん底の時間から
実はこの2年間くらい、結構仕事が苦しかったんです。5年前から神山で取り組んできたプロジェクトには、自分が持っているものを出し惜しみしないで投入しよう、という感覚でやってきました。
丸ごと投入した感じだったけれど、2年くらい前にある流れや動きがあって、「自分がやってきたことは一体何だったのかなあ」と、がっかりした時期があったんです。
去年の夏はなんかもう、本当にどん底でした。自分がこれからどうしていったらいいのかもよくわからない、という感じだった。
それで何らかの手を打って行かなくてはいけないと、まずSNSを見る時間を減らすところから始めた。とにかく外のことに気を取られすぎていて、自分と一緒にいる時間が足りない。自分が何を感じているのか、自分が何を求めているのか、よくわからないという状態になっていました。
自分自身との距離を取り戻すために
やらなければいけない仕事というか作業がすごくたくさんあって、「俺がやらなくちゃ」と、とにかく出ばって、自分自身というか、実感との距離が遠くなってしまっていたと思うんですね。
「どうしよう」と悩んでいるときに、箱根山テラス(陸前高田市)で年に一度のイベントがあった。そこで料理担当の三原寛子さんが、アーユルヴェーダについて学んでいることをいくつか教えてくれたんです。
その中に「自分が消化できる以上のものを食べない」という言葉がありました。何を食べたいか? でなく、消化できるか? という観点で食べ物を選んだり、考えたり、食べるということですね。
どん底の自分にすごく響きました。いろんなものが消化しきれていないし、極端に言うと、何を食べているのかもよくわかっていないと思ったんです。
去年、妻から「もう食べ終わったの。速いね」と言われたことが2回くらいあったんです。食べた瞬間に「美味しい」と感じて、何口か噛んだら「情報処理済」みたいな感じになっていた。「ああこれだ」と思って、食べ方を変え始めたのが去年の12月です。いま、その中にいます。
日常の中にあることを変えていく
ーー食べ方を意識して、変化はありますか?
自分の変化って、ちょっと時間が経ってみないと分からない。でも「これは大事」と思い続けていられているので、変化というより、手ごたえを感じているところだと思います。
「インタビューのワークショップ」の最後によく話すことだけど、人の話をきくということは、とても日常的なことです。そして、人の話をきく回路が変わると、同じように、自分の声のきき方も変わります。
「私自身」と「私」の関係はポータブルで、僕らが24時間365日、ずっと積み重ねている内的な人間関係です。呼吸法とかもそうだけど、日常的なことが一番影響力が大きくて、そこでくり返しトレーニングされたものが、いろんなことを可能にしていくと思うんです。
食べるということ
食べ方の話も、それと同じだなと思います。みんな、食っていくために働かなきゃいけないと言って、でもあんまりちゃんと食べていなかったり…。ご飯を抜いて働いてる人もいっぱいいるし、食べていても、何を食べたかほとんど覚えていないような人もいっぱいいると思う。自分もここ1、2年、そんな感じだったなって。
昔、屋久島に行ったとき、宿のお母さんに「ひと口ずつ箸を置きなさい」と叱られたのを思い出しました。
食べることはとても日常的なことで、必ず毎日やっている。だから食べ方をつくり直すと、一番良いトレーニングになるんじゃないかなぁと思って、いま重ねている。そんなところです。
ーーそうやって食べていると、まず自分がどれだけ速く飲み込んでいたかということがわかりますね。
いわゆるファストフード的なものは、口に入れた瞬間のインパクトで味が調整されている。噛めば噛むほどおいしい、というものとは随分違います。
食べることを通じてやっているのは、食べている間「自分と一緒にいる」ということです。自分と本当に一緒にいる時間にしたい。
瞑想やマインドフルネスとは違う形で、自分と一緒にいる方法として日常の中の食べ方があるし、その食べ方は働き方ともすごく重なってくるなと思っています。その人の食べ方とその人の働き方は、結構似ているんじゃないかな。
何をどう食べていくか
ーー西村さんがこの4ヶ月位、食べることと関わってきて、ご自身はどんな食べ方をする人だと感じますか?
自分にとってご飯って、人付き合いみたいなところがあるんですよね。◯◯さんとちょっと話したいからご飯に行くみたいな。店のメニューから食べたいものを選んではいるけれども、行なっているのは、その人と行って楽しい店で基本的に人付き合いの延長なんです。
自分にとって仕事がまさにそんな感じ。仕事は完全に人付き合い。私はもともとそういう傾向があって、自分がやってみたいことはもちろんあるけれど、この人に頼まれたとか、この人から相談を受けたとか。
あるいは自分からやってみたいことでも、あの人と働いてみたいからこれをやるといいなとか…。なので、仕事が人付き合いの道具や機会になっているんですよね。
食べることに話を戻せば、自分が食べたいものをちゃんと自分に食べさせてあげるということを、全食でなくてもできるようになりたい。
「自分が何を食べたいと思っているか」をちゃんと感じ取ることができて、それをつくり、自分にフィードするという習慣や回路ができていれば、自分がここ1、2年、何がやりたいのかよくわからなくなって、迷子っぽくなっていたようなことも、簡単にわかるんじゃないかな。
自分が何を食べたいのかわかるということは、自分がいまどういう状態かわかっているということだと思うんです。それがかなりわからない感じになっていたんですね。
自分の響きから存在の輪郭を
ーー食べるを意識して4ヶ月くらい経って、いまは自分と一緒にいる感じがしますか?
わからない(笑)。…自分と一緒にいる感じがすると、どういう感じがするんでしょうね。
自分と一緒にいないときや、自分が自分からちょっと離れているとき、出ばって活動しているときは、ちょっと声が高くなったり、自分らしくない声を出していると感じることがあります。
それでいえば、例えばいまのこの時間も、自分の響きでしゃべれているとは思う。でも自分と一緒にいられている感じがするか? ということについては…わからないけど、もっといたいんですよね。
自分といる方法は食べること以外にもあります。例えば絵を描く、踊る、ストレッチをするなどいろんな方法がある。瞬間瞬間の自分の状態を感じながら、それを表現につなげていく作業は、自分がここにいることを表出させる。そこをもっとやらなくちゃいけないんだなと思っています。
そういう意味では文章を書くのも、物語を書きおろすとか。歌う、踊る、粘土で何かつくるとか、そういう風な創作をもっとしたいんだな、した方がいいんだな、と思っています。
ーー何かを表出させたいという気持ちなのですか?
そのときの自分を感じながら、それをちゃんと表現につなげるということ。感じているだけだと、結局なんだかわからないんですよね。それが絵や歌、文章になってくると、ようやく自分の存在の輪郭が見えてきます。
書くことを通じて「いやこの言葉じゃなくてこっちの言葉だ」とか吟味して、それに形を与えていくことで、「あ、そうそう、こういうこと」という自分がわかってくる。そのわかってくることを通じて、他人ともコミニケーションが取れていきます。
自分の中で感じているだけだと、少なくとも僕はつまらないし、社会の中で機能している状態になれない気がします。
表出させたいというのではなく、感じて、それを表現する。でも、その感じる部分が近年弱かった印象があるわけなんです。いろいろな方法があると思うけれど、「食べる」というところを掘っているのが現在ですね。
アーユルヴェーダの概念と出会ったり、神山の裏山を歩くことの楽しさを知ったり、食べ方を変え始めたりした時間の中で、「インタビューの教室」をオンラインでやってみようという気持ちになったり。
5年間やってきた組織は、実は「これからどうなるんだ」という感じだったけど、この1、2ヶ月で生まれ変わって息を吹き返して、何とか川を渡ることができたかなという、今日、4月3日です。
感じることからつながるもの
ーー食べるの話から、自分自身と一緒にいるということがあって、その先にまたインタビューの教室をやろうということが出たのは、西村さんの中ではどんな感覚ですか?
つながっています。「きく」ことも、「食べる」こともすごく似ている。要は“感受„というのかな。基本はそこなんだよね。表現するということの前には、必ず“感受„がある。感じたものがあるから、絵を描いたり、感じているものがあるから、映画を撮ったりする。
ただ映画をつくるということがあるわけではなくて、感じている世界が豊かで、ようやくその表出があるわけです。その“感受„というテーマを自分はくり返しずっと扱っているんだな、ということを前々から思っています。
30代中盤の頃、「サウンド・バム」という世界のいろいろな場所に音をききに行く旅をパイオニアと一緒にやっていました。レコーダーを持って旅に出て、音をきいてまわる。世界各地20−30ヶ所くらい行きました。
音をきく旅をしていくと、その場所が丸ごと自分の中に入ってくる感じがありました。そういう音のプロジェクトは自分のインタビューや、人の話をきくということと地続きでつながっていますね。“ 感受„と“ センス„、そこがずっと軸にあります。
感受の、その先
ここ5年くらい、神山のまちづくりの仕事に、自分を100%、120%投入してきた感じでした。
集合住宅をつくる、高校と地域の関係をつくる、空き家の改修を考え直す、そういうものをつくり出せるチームをつくる、あるいはいろいろなモノゴトが生まれやすい状況をつくる、いろんな人が混ざり合う場をつくるなど、「つくる」ことばっかりやっていました。それでこっちの感受、センスの方が弱体化していたんですね。
それをなんとかしなくてはという、自分の中の「感受性回復運動」が去年の12月くらいから勃発したんだな(笑)。昔のアメリカ西海岸の人間性回復運動じゃないけど、感受性回復運動、ヒューマンポテンシャルムーブメントが続いてるんですね。
ーー感受が高まってきたら、その先にはどんなことがありそうですか?
起こることが起こるんでしょう。
ーー起こることが、起こる?
うん、そのときにつながる回路で、結果としてそれが表出していく。だから感受なんだよな…。うん、そこに着地できました。
(インタビュー:寺中有希 2021.4.3)
プロフィール:
西村佳哲(にしむら よしあき)
1964年東京生まれ。プランニング・ディレクター。リビングワールド代表。働き方研究家。つくる・書く・教える、大きく3つの領域で働く。開発的な仕事の相談を受けることが多い。東京と徳島県神山町に居住。同町の「まちを将来世代につなぐプロジェクト」のメンバー(理事)。
主な著書:
『自分の仕事をつくる』(ちくま文庫)
『一緒に冒険をする』(弘文堂)
『増補新版 いま、地方で生きるということ』 (ちくま文庫)
『自分をいかして生きる 』(ちくま文庫)
『かかわり方のまなび方: ワークショップとファシリテーションの現場から 』(ちくま文庫)