ドラムサークルワークショップをファシリテートしている佐々木さんを見かける機会がありました。打楽器の音が飛び交う中、小さな太鼓を打って、その音をぽーんと相手に届ける。音は見えないのにそのやり取りが浮かび上がって見えてくる。みんなの音が重なり合っている参加者の楽しそうな様子を眺めていたら、「やりたそうに見えたわよ」と部外者の私にも打楽器を渡してくれました。そんな佐々木さんにファシリテーターのあり方についてお話を伺いました。
誰でもファシリテーター
ーー仕事の軸に一番なっているものは何ですか?
佐々木:あなたは誰ですか?と聞かれたら「ファシリテーターです」と答えます。と言いつつ、ファシリテーターとは何かという定義は人によって全然違いますね。ファシリテーターの特徴は集団を扱うということです。
集団は難しいし複雑ですが、その分、面白いです。難しいだけに可能性が眠っているような気がします。その人の力を引き出すとか、まだ眠っているリソースに気づくように促すという意味で、個人に対するコーチングと同じことなのかなと最近つくづく思っています。
ーーファシリテーターとしてどんなことをやっていますか?
佐々木:ひとつはドラムサークルですね。みんなで輪になって、即興的に作りあげる打楽器、パーカッションのアンサンブルです。みんなで打楽器を使いながらその場を共有します。
その他には『プロフェッショナル・ファシリテーター (原題:Standing in the Fire)』という本に基づいた、「あり方」を磨く研修や、先日、宮古島で行った「Being Solo」という自然の中にひとりでじーっとしているという場を作っています。
そのどれもに共通していることは、可能性や力、リソースをなるべく引き出すことや、それが出て来やすい場作りです。今まで出づらかった、抑圧されていた人の能力や意見、気づき、アイディアが出やすいフラットな場を作ったり、最終的にはその人たちがそこの集団にいて嬉しいね、ハッピーだねと思って、ますます能力が発揮できるような場を作ったりします。
ファシリテーターと名乗る人だけではなくて、本当は誰でもファシリテーターなんです。
人は家の中でも外でも誰かと関わっています。ファシリテーションしている会議で誰かが怒り出したり、すごいしらけたりする出来事や、家で誰かが怒り出したりすることを「Standing in the Fireワークショップ」では「ファイヤー(炎)」と呼んでいます。起こっていることでファイヤー(炎)がつくと、過剰に反応して誤ったカード(誤った態度や言葉)を出してしまうときがあるんです。
自分の中に今、炎がついたということを知っているとその炎は暴れないんです。だからそういう自分を育てていくというのが第一ですね。
新しい解き方
佐々木:世界には新しい問題が続々と出てきていて、ある時点でのベストプラクティスはあっても、それが今の時点では通用しなくなります。
みんなが違うけれどイキイキと生きている社会の方がクリエイティビティが高かったり、イノベーティブになったりする世の中になるのではないかと思います。
新しい解き方を見つけるためにファシリテーションは役に立てると思います。多様性を認め合うと、すごく緊張感が減ると思うんですよね。人間はもっと信頼してもいい相手だし、素敵な人がいっぱいいます。信頼されたら嬉しいに決まっています。自分を開いて安全なら身体が緩みます。自分が楽だなと思ったら、相手も楽になっているので、交流しやすいでしょう?ファシリテーターはそういう雰囲気作りをしているんです。
ーーファシリテーターとしてどんな風に関わっていますか?
佐々木:ファシリテーターのときは2つの側面があって、ひとつはその集団に自分は関わっていないということ。外部からファシリテーターとして来て、その集団の成長や気づき、学び、イノベーション、目標を達成します。その集団とディタッチド(分離)しています。「ここにあるものは、この人たちのことである」と見ています。そのとき、私は切り離されています。
もうひとつの側面は自分がその集団のシステムに影響を及ぼしている場合です。その両方を持っているような感じですね。
普通に生きていても人間は必ず家族や学校、組織などのシステムの中にいて、そんなユニットに私たちはいっぱい属しています。そこではあえて「ファシリテーター」として関わらないことが多いと思いますが、みんなそのシステムの一部として影響を与え合っています。私たちは普段、それを「ファシリテーター」とは呼ばないけれど、私は誰でもファシリテーターだと思っているんです。
でもそのシステムに含まれているから難しかったり、固定した関係性がすでに出来上がっているために問題を解きにくかったりします。だからこそ変えられるというのもありますが、難しいときには外部からコンサルなりファシリテーターが行ってちょっと刺激を入れるというのもありだと思います。
ーー「誰でもファシリテーター」とはどんな感じですか?
佐々木:「ファシリテーター」という言葉を使わなければいけないこと自体が異常事態なんです。思い起こせば子どものときに近所におっちゃんがいて、「あのおっちゃんがいると何か知らないけどみんなニコニコして丸く収まるんだよね」というような人がいたんですよ。きっといたし、今でもいるんだと思うんです。
そういう人がいた古いコミュニティのあり方には、悪いところもあります。因襲的だったり、無理強いをしたり、男女の格差があったり。でも、ちゃんと人間が密に関わっていて、なんとなく調整する人がそこにいるみたいな感じです。「あの人がいるとなんとなく落ち着く」みたいな人、それはきっとナチュラルファシリテーターなのでしょう。
「誰もがファシリテーター」というのは、今から来るであろう新しい世界観の中で、今、便宜的に「私はファシリテーターです」という人が必要だけど、理想的にはそれがなくなって、みんながファシリテーターであっていいのではないかなと思います。
要するに関わり合いをちゃんと作れる人が増えていくことですね。「ファシリテーター」というのは職業や位置のことですが、「ファシリタティブ」という言葉もあります。「あの人ファシリタティブだよね」と使います。天然でファシリテーション的なことをやっている人がいますよね。ファシリテーターという肩書きがつくのがファシリテーターなのではなくて、みんながそれぞれファシリタティブになったらいいと思います。
私自身はファシリテータをやり始めた期の頃、「べき」がいっぱいありましたね。「これが理想形だ」という思いがあったので、どうしても力が入ります。今、考えるとほとんどファシリタティブではなかった(苦笑)。今より若かったというのもあるし、評価されたいとか、さすがと思われたい、かっこよくいたいという気持ちがありました。それが最近はどうでもよくなってきました(笑)。
それは私の話であって、ファシリテーションの対象となっている集団の話ではない。この集団に何かが起こって欲しいのであって、この集団がどこに到達するのかということが大切。
こう言うと乱暴ですが、結果は私のものではないし、私の評価もどうでもいい。その人たちにベストの結果が出ることが、本当の「結果」なんです。その人たちが学習と成長を続けていく集団に変わっていけばいいんです。だって私はその人たちではないんです。
その人たちのその後の人生にひとつ種を蒔ければいいと思っています。そうなるとコンテンツとプロセスの区別がどんどんはっきりしてきて、力が抜けてきたような感じがします。
本質をみるーBeing Solo
ーーBeing Soloでは何をするのですか?自然と対話するのですか?
佐々木: Being Soloでは何もしないで過ごし、することを徹底的に奪うんです、そぎ落とすというか。
「Being Solo」の3日間、食べることも、スマホや本もダメです。今回はペンとノートも海で泳ぐのもダメにしました。山でSoloをするときはみんな見えないところにいますが、今回の宮古島は大きなビーチひとつでやるのでお互いのことが見えます。誰かと目が合ったときも挨拶しなくていいし、目も合わせなくてもいいんです。
全部奪って、そぎ落とすと、膨大に時間があるんですよね。普段の生活は本当に忙しい。Being Soloでは、自己と向き合うというよりも、私の場合は発見があるという感じです。その発見というのは、「何かな何かな?」と考えて出てくるのではなくて、ボケッとしているときにポコっとやって来るものです。だからボケーッとしていればいいんです。恐れとか苦しみのほとんどは「今ここ」ではないところに集中しているから生まれるんです。
ーー「今ここ」はなかなか難しいですよね、簡単な言葉ですけど。
佐々木:最近特にインターネットなどがあるから情報や脳内会話がずーっとエンドレスでぐるぐるしていてずっと終わらない。刺激をシャットアウトすると、今まで全然目に入らなかったものをじっと見ていたり、五感が全開になったり、五感が使えるようになったりします。
瞑想みたいなものかもしれませんが、それが目的になってしまうので、Being SOLOを「瞑想」とも「断食」とも呼びたくないんです。何かをすることや情報、食べ物などに飽和しすぎて本質が全然わからなくなっているので、「何もしない」をしに行くんです。
自分らしさを受け入れる
佐々木:自分のスタイルのことを私は「芸風」と呼んでいるんですけど、「私の芸風はこうだけど、みんなはそうでなくていいよ」とファシリテーターに対しても言っています。誰かと同じ芸風のファシリテーションでなくてよくて、その人らしい方が良いでしょう?
ーーそれぞれの芸風がある中で、これだけはみんなに大事にして欲しいということや、ご自身が大事にしていることはありますか?
佐々木:これは自分に課しているんですけど、芸風がある限り、誰かの振りをするなということですね。だからこそ芸風が成り立つのです。誰かのここは見習いたいというのは私にもあって、素敵だなあと思うことを集めていきます。一方でどの誰にもならないでいいよということをやり続けたら自己受容は高まるんです。「このままでいいじゃん」と思えるようになります。
私自身は自己受容がとても低かったのですが、「このままの自分でいたけれどみんなそれなりに受け入れてくれたよ」と思ったら、それで良かったんだなと思えました。ファシリテーターをやることでものすごく助けられて、一番得したのは私なんです。
ーーファシリテーターをすることでどうして自己受容が高まったんですか?
佐々木:自他共に多様だなと思えるようになりました。同じように見えてもこんなにもそれぞれが違うんだと。ファシリテーターを始めた頃に、私のサル知恵が「この人は無理だろう」とNGを決めつける自分がいたんですね。「この人にはできない」と勝手に思っていたのが、ファシリテーションしていくと目の前でぎゅーっと花開くのをいっぱい見せつけられました。
その人ですら知らなかった可能性がその人の中にあるんです。どんな可能性がそれぞれ眠っているか、本人さえも知らない。昔はちょっと見て「ダメ」と決めつけていたのですが、他者に対する自分の決めつけが減ると、自分に対しても「これでいいじゃない」と思うようになり、楽になりました。
一年位前から羨ましさを解消するのが上手くなってきたかもしれません。それは人間は自分の一番したいことをしたいようにしているのが幸せなんだと思えるようになったからです。それはやっぱり自己受容と関係あると思います。
それはあなたの人生だと思うこと。自分が自分を生きられていないときに羨ましいと思います。「そうか、それはその人の人生だった」とじわりじわりと思って、去年の春からのテーマは「他の人の人生を生きない」なんです。
ファシリテーションと全然関係ないようですけど、自分の中ではつながっています。ずっと積み重ねていったら、表面上はどう見えようと、同じものが流れているんだと思います。
(インタビュー:寺中有希 2018.4.23)
プロフィール
佐々木 薫(ささき かおる)
2003年よりドラムサークル(DC)を始め、「ドラムサークルの父」アーサー・ハル氏を8回招聘してDCファシリテーターを養成、これまでに1,000回、のべ2万人以上をファシリテート。2007年より、一般のファシリテーションにも着手。
著書に『エンパワーメント・ドラムサークル』(ATN刊)、訳書多数。『プロフェッショナル・ファシリテーター どんな修羅場も切り抜ける6つの流儀』(ラリー・ドレスラー著、森時彦監訳、ダイヤモンド社刊)
翻訳者であり、それに基づくStanding in the Fireワークショップ認定ファシリテーター。
認定NLPプラクティショナー、Case Western Reserve大学認定「社会と組織のためのAppreciative Inquiryファシリテーター」。
Being SOLO、「死の対話」も主宰している。(詳細はfacebookでご覧ください。)