たとえどうしようもない運命のもとに生まれたとしても


writer: 三浦 祥敬

嫌なものは遠ざけ、良いものだけを受け入れる生き方の手放し

前回寄稿したエッセイに書いたように、僕は5月〜6月にかけてスペインのサンチャゴデコンポステラ巡礼に行ってきた。むしろそこから始まったと感じている私だけの巡礼の旅。日本に帰ってから何をし始めたのか共有させてほしい。

スペインから帰って、レールの世界から降りたような感覚はまだ続いていた。2週間空けていた家の床にはうっすらとホコリが積もっていた。前とは違う身体感覚。思考の仕方もどこか違うような気がした。

だが、レールの世界から降りている世の中の価値基準から解放されたような感覚は長くは続かなかった。

どうしても自分の人生に自身を苦悩させるものとして何度も人生に出てきているお寺の後継者問題のことに向き合う必要がある気がしてきたのだ。僕はお寺に生まれ、今に至るまでお寺を継ぐのか継がないのか保留にし続けている。僕にとっては世の中の価値基準がはびこっているレールの世界を生きていて、乗せられると一番嫌気が指すレールがお寺を継ぐことだと感じている。

どうしてもそのレールは苦痛をともなって目の前に現れてくるのだ。それは頭の中に打ち込まれた楔のようなもので、簡単に自分からひきはがすことができないようなものとして出てきてしまう。

しかし、スペイン巡礼をしている間に、そもそもレールの世界から降りた境地に立つことができるという可能性を感じたから、このどうしようもなく抗えないレールの魔力からも解放されうるんじゃないかと考えた。

小さい頃から周りの人たちは継がないの?と声をかけてくる。家族にも(継ぐために)帰ってくるのはいつだと言われ始めた。この苦悩と向き合うことなく、そのレールの存在を見ないようにしていると、心が荒んでくる。このレールは心を苦しめる根源の一つになっているらしい。

みなさんの中で嫌なことを進んでしたいという人はそんなに多くないと思う。できればより良いと思うものに囲まれたいはずだ。

ただ、その嫌なものがもし嫌ではなくなったらどうだろうか?何のエネルギーも生まれない無関心ではなく、嫌だという感情はプラスの感情と引けを取らないくらいにエネルギーが吹き出てくる泉にもなる。僕は体感的にネガティブなものに向き合うことを通して自らが自由になりレールの世界から降りる自由の境地にアクセスしやすくなってきたので、あながちネガティブなものがあるというのが悪いことだとも思っていない。

僕は長年本当に嫌だと感じ続けてきたお寺の後継者にまつわる問題を扱っていこうと肚に決めた。僕はお寺に生まれ、兄がいる。兄にお寺を継ぐ気がないと10年以上も前に言われてしまった。僕も継ぎたくはない。当事者としての後継者問題はずっと頭の中に影を落とし続けてきた。

お寺は血縁でそこに生まれた人が継ぐものだというイメージは多くの人が共有していることであるから、継ぎたくないと思っている自分にとっては日常の中で嫌な場面はたくさんある。「普通継ぐもんでしょ」という風に言ってくる人がいたりして、そういう時には「お前が継げよ」なんて返したくなってしまうほどだ。世の中に敷かれているように見えるレールはとても強固だ。

一方でこれまでお寺でワークショップをやったり、お寺で行われるフェスの運営に参画したりしてきた。自分が嫌だからあえてそれに関わり、自分がお寺に向ける目線や捉え方を強引に変容させてきた。そして、ようやくお寺と仏教の文化自体を冷静に見れるようになってきた。嫌悪の対象じゃなく、面白いものとして見れるようになってきたのはここ数年の大きな変化だ。それらに向き合うことがなかったら、世の中で敷かれているレールにさも従わなくてはいけないように感じてしまって、奴隷のような心地で選ばされるレールの上を生きていくことになっただろう。

しかし、「後継者問題」という厄介な問題は避け続けてきたように思う。無意識のうちに考えないように考えないようにしていたのだけど、人生の中で考えざるをえないタイミングに差し掛かっている。

苦悩を自らの創造源にせよ

現在、お寺の世界は大変な困難に向き合わざるをえない状況だ。時代の流れとしては、宗教への信仰が薄れていっている。さらにお寺がお寺の檀家さんから得ていた収入は人の宗教離れと合わせて減っていっている。経営的に立ち行かなくなっていっているお寺が増え、廃寺が増えている。

私自身の人間関係が変化していく中で、お寺の文化を前向きに変革していく人たちが周りに増えてきた。その中でも後継者にまつわる問題はそれほど手は打たれていない。重要であるにもかかわらず、複雑にからみあっている問題なので、解決が先延ばしにされていっている状況だ。

個人の流れとしても後継者問題について考えざるを得なくなってきた。母親が末期ガンで亡くなるかもしれないという状況で、家族の中でお寺をどうしていくかということが気がかりになっている。その中で前は継ぐために帰ってこいなんて言うことはなかった父親が「(継ぐために)いつ帰ってくるんだ」と言い始めた。

正直嫌だ。だが、同時にこの背景が他の人と関わる際の口実にもなりうる。自分の苦悩を話すとものすごく高密度に共有できる人たちがいるのだ。当事者であるということを受け入れて活かせば、それを問題解決や問題解消のエネルギー源にしていくこともできる。時代の流れと社会の流れ、周辺の人々の流れ、個人の流れが重なるところに現れてくるイシューはたとえ苦悩の源泉だとしても扱ったほうがいいのではないだろうか。

苦悩の根源を持つことはクリエーションの源泉として作用する。ポジティブに転化させていきたい。

今現在は敷かれたレールへ身体を持って行かれているような感覚があるが、活動しているうちにそこを脱していける気がする。その時に自分を俯瞰する視点としてレールなき巡礼路を意識しておきたいと思っている。

これがあったらいい。こうなったらいい。

世の中には条件付けの幸せを求める人がとても多い。条件を満たしていないといつまで経っても幸せに至らないというのが特徴だ。一方で僕がここまで書いてきた「嫌な感情を引き起こすことに向き合うこと」は幸せに対する仏教的なアプローチで、これを行っていくと不安に悩まされることが少なくなっていく。

レールなき世界は不安なき、自由な世界。その巡礼路をいつも歩けるはずなのに気づいたらレールのことを気にしてしまうけど、またいつでも私だけの不安のない巡礼路を歩ければいいなと思っている。

ネガティブだと思っているものは捉え直せば価値の源泉だ。むしろネガティブなものが避けられる傾向が強い時代になったからこそ、逆にそれを解消していけることが人生を生き抜くしなやかさに通じているのではないかと信じている。

レールなき世界から俯瞰し、レールありきの世界の清濁を昇華してクリエーションにつなげていく。そのような生き方で価値創造していけたらと思う。

writer:

三浦祥敬 Yoshitaka Miura

ラーニング・プロデューサー。
1991年佐賀の禅宗・曹洞宗のお寺に生まれる。不登校・発達障害などの社会的にネガティブだとみなされるバックグラウンドを持つが、それらをプラスに転化していくことを楽しんでいる。現在、人生の転機を乗り越える思想・技術を「Life Transition」という切り口から探求中。TRANSITION PROJECT主宰。
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