インタビューvol.16 菊地雄亮さん「心を体で表現する空間づくりを目指して 」
本当に大事なのは、言葉にしっかり心を込めていたり、本当に自分が想っている言葉を届けることです。その方が相手に届けられるのだと思います。言葉もダンスもまず自分の感覚に耳を傾けることが一番大切なことだと思っています。
本当に大事なのは、言葉にしっかり心を込めていたり、本当に自分が想っている言葉を届けることです。その方が相手に届けられるのだと思います。言葉もダンスもまず自分の感覚に耳を傾けることが一番大切なことだと思っています。
人は「変化させよう」として変化させられるものではなく、自分やグループ、チーム、組織がよりよくなりたいと思い、どうすればそうなるかを探求する結果として変化するんです。だから「変わる」とか「変わらせる」ということを目的にするのはやめましょうと私はいろいろなところで叫んでいます。
博物館にいる人にはそれぞれの特技や専門分野があります。私も何か得意分野がないと居づらいなと思っているときに、大量の骨を仕分けする中で、哺乳類なら大体の見当をつけられるようになってきました。博物館のために働けて自分も勉強でき、何より骨の形は面白くてハマりました。
プロジェクトの記録や組織の棚卸に伴走することが多いのですが、そこで起きていることは、本当に名づけようがないんです。それこそ敢えてことばにすると「誰かとともに生きていくこと」や「人生」みたいなことで…。
「詳細をきく」というとその問題がどういうものかを細かくきくというのが通常の理解です。でもそういうきき方をするとその問題はどんどん大きくなるだけなんです。でもナラティブにおいての「詳細をきく」とは、「その問題とその人の関係性」をきいていくということなんです。
スペインから帰って、レールの世界から降りたような感覚はまだ続いていた。2週間空けていた家の床にはうっすらとホコリが積もっていた。前とは違う身体感覚。思考の仕方もどこか違うような気がした。
だが、レールの世界から降りている世の中の価値基準から解放されたような感覚は長くは続かなかった。
僕は最近、戦うことも大事だと思っているんです。対話はある意味戦いで、何が起こるか分からない。
急に傷つけられるかもしれないし、不意を突かれたりするかもしれない。
対話は見えない格闘技に近いと思います。でもやり合わないと、いい試合にはならないですね。
ここは子どもを「子どもに戻す」ことをやっている場所です。入院や病気は子どもたちからいろいろなものを奪います。それはたとえ1日の入院であったとしても、安全感や自主性、仲間や保護者との関係も、自由や時間も奪います。何よりもあの子たちの中の自尊感情が下がっていきます。それが病気や入院治療が子どもたちにもたらす痛みや苦しみだと思うんですね。
こう生きるべきという呪縛から離れることは怖いかもしれない。
ただ、それぞれの人たちが異なる思いを持って行う人生の巡礼は、怖かろうが怖くなかろうが、すべての人に開かれていて、ただ自分から湧き上がってくるものを大切にすることでなし得るものなのだ。
「ファシリテーター」という言葉を使わなければいけないこと自体が異常事態なんです。思い起こせば子どものときに近所におっちゃんがいて、「あのおっちゃんがいると何か知らないけどみんなニコニコして丸く収まるんだよね」というような人がいたんですよ。きっといたし、今でもいるんだと思うんです。